最近観た映画

「劒岳 点の記」「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: 破」「アマルフィ 女神の報酬」「自動車泥棒」
「劒岳」すばらしかった。ドラマを排除しても映像だけで映画って成り立つんだなあ…と思ったのは「千と千尋」以来っす。スクリーンで見ないと意味が無いし、日本発!として世界に誇れる映画だと思います。映像だけじゃなく役者もすばらしかったんだけど21世紀感がぬぐえないのはちょっとだけ残念。龍平の眉毛は論外としても香川さんの髪型も現代の都会人だった。
宇多丸師匠がPODCASTで浅野くんの「デカイっすね」に触れてたけど、龍平の「ピンピンです」もええ!って思いました。っていう話を友人にしようと思ったら竜平?と聞き返されてもうグタグタ…。竜ちゃんが山頂でクルリンパですよ。いや本題は浅野君のいわゆる自然体の演技なんだけど、ちょっとびっくりしたので書いときたい。
僕らの日常会話だと相手の言うことにちょっとづつ「ああ」「ちょ」とかリアクションしつつ二人の意思疎通がはかられてくと思う。対して映画とかドラマの会話って二人が何を喋ってるかを観客って第三者に伝える(もしくはあえて伝えない)って不自然さが必要でそれが"自然"な演出なんだろうと。たとえば相手がしゃべってる間は「待ち」で存在感を消す…みたいなことが前提とされてるって認識が僕にはありました。
それがです浅野君、一例ですけど役所さんとの会話の端々にあいまいなうなづきや言葉にならない言葉を入れてくるんですよ。それ日常では自然だけど映像ではすげー不自然だよう。自分の言葉で自分のリアクションって自分が本人になってる?自然体もここまできたのか?と思ってしまいました。
対照的なのがアマ海祐希で、カメラ前に一人置かれて「ビックリしてください!」「悲しんで!もっと!」「怒って!激しく!」「襲って!」などと演出されてたんだな〜と思うと「女神の報酬」ってサブタイトルも味わい深く感じられます(深い意味ありませんケド)。
「ヱヴァ」はテンションだけですばらしかった。使徒幾何学的造形がもうツボすぎて。すばらしい破壊をみせてもらった。あと残虐描写がふりきれてるわあ。「自動車泥棒」力也さんのバイタリティあふれる作品でした。元気もらったっす。見れて良かった。